竹村真一、ウィキペディア

それまでは京都がみやこで、西日本中心の国土構造だった。人口が増えて土地と食料が足りず、互いに奪い合うしかなかったことから戦国時代が続いていた。平和な世にするため、家康は江戸を拠点に未開の関東平野を開拓、利根川を付け替えて新田開発を行い、東日本中心の国土構造に転換した。その結果17世紀の百年で米の生産高も人口も倍増し、平和が250年続いた。さらに、18世紀の江戸では、幕府の政策によって持続可能な森林管理も実現した。 江戸時代は全期を通じて寒冷な時代であったといい、凶作や飢饉が絶えなかった。江戸時代に起きた長期にわたる冷害・旱魃・水害などの異常気象や害虫の異常発生、病害、火山噴火などでの凶作の連続による飢饉の内、元和の飢饉(1619年)、寛永の大飢饉(1642年-1643年)、延宝の飢饉(1674年-1675年、1680年)、天和の飢饉(1682年-1683年)、元禄の飢饉(1691年-1695年)、享保の大飢饉(1732年)、宝暦の飢饉(1753年-1757年)、天明の大飢饉(1782年-1787年)、天保の大飢饉(1833年-1839年)の被害は特に甚大であった。